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19年連続増収増益のプロ経営者が考える変革リーダーのあるべき姿とは
日本の常識は世界の非常識 典型的な日本人が海外で見たもの
吉越様が、トリンプで成し遂げられた19期連続の増収増益達成という快挙は、とても有名なお話ですが、”結果を出し続ける“原動力はどこから来ているのでしょうか。
「結果を出し続けなければいけない」という言葉に、多くの経営者はドキッとするのではないでしょうか。しかしドキッとしていてはいけないのです。会社や、あるいはその内部の小さな組織でもそうですが、どの組織レベルのトップでも全責任を持ち、業績を上げ続けなくてはいけないのです。日本は甘すぎます。
外資系企業では、結果を出せなければ辞めさせられるのは不文律です。しかし、結果を出すことは一人では成し遂げられません。チームで一緒にやっていくからこそ、会社や事業を大きくしていける。とすると、部下が優秀でなくてはいけませんが、私が社長を務めたトリンプには、少なくとも当初、有名大学を出た人財は滅多に来ませんでした。とはいえ、人は育つものなのです。部下を育てるためには、細かく指示を出すのではなく、場を用意してあげる必要があります。場を与えた上で、「どういう風にやったらいいでしょう」と尋ねられても答えずに、逆に「わかった、君自身はどうやりたいんだ?」と聞くことが正しいのです。
ドラフト会議1位で入った野球選手がなぜか大成せずに、間もなく戦力外通告を受けることが多いと聞きます。もともと素晴らしい素質を持っている選手ですから、本来なら自ら考え、習うのを基本に成長していくはずです。しかし、日本の野球界は手取足取りの指導で、わざわざ潰している。それは、どこの会社も全く同じだと思います。部下が可愛いので一生懸命教えようとしますが、それでは大きく育ちません。日本人は基本的に皆優秀ですし、やる気もあります。重要なことはどうやって育つようにしてあげるかです。私は教育ではなく、自ら習って育ってもらう”習育“が基本と言っています。
”習育“は具体的にどのような形で浸透させていったのでしょうか。
トリンプで取り組んでいた早朝会議は、それ自体が若い人を育てるための場にもなっていました。まず、より大きな仕事を与え、取り組んでもらい、自ら作成してきた解決案に対して問題点を指摘し、ちゃんとした案になるまで毎回出し直しをさせる。それを繰り返すうちに、自分で必死に考え始めます。部下がきっちり仕事をできるようになると、会社の業績も上がってくる。ほったらかしであっても仕事をしてきてくれるのです。日本で”報連相“などと言っていますが、これは、部下をわざわざ大きく育てないためにやっているようなものです。
そういった常識にとらわれない発想や行動はどこから生まれてくるのでしょうか。変革者としてのルーツのようなものはあるのでしょうか。
明治生まれの母は海外に憧れのある人で、「ハローハロー嬢(国際電話交換士)になりたかった」とよく言っていました。私が若い頃、テレビでは「兼高かおる世界の旅」が流れていて、よく見ていました。姉もキャセイ航空の客室乗務員をやっていましたので、自分も当然、海外に行くものと思っていました。私が入った上智大学は外国語が6学科あり、判断ができなかったので、6角形の鉛筆を転がして、ドイツ語に決めました。当然ドイツに行かなくちゃいけないということになり、大学に入ってからは、家庭教師のアルバイトでお金をためて留学しました。留学は一番早く返事をくれたハイデルベルグ大学に行きましたが、そこで、姉妹都市のモンペリエの大学から来ていたフランス人である現在の妻と出会いました。留学体験、そして妻と出会ったことが人生の分岐点だったと思います。とはいえ、すぐに変わったわけではありません。ドイツに行っても日本人とばかり遊び、麻雀ばかりしている、どこにでもいる日本人でしたから。
卒業後に働き始めたドイツ農産物振興会のボスがヘッドハンティングされ、私も一緒に付いていった会社がメリタです。以前は、ボスと私と秘書の3人だけの会社で、毎日定時に退社する生活でしたが、メリタでは、ボスと私の間に日本人が入ってきたことによって、夜10時くらいまで平気で仕事をするような生活に大きく変わっていきました。妻はフランスの銀行に勤めていましたので、定時で帰り、料理を作って待っているのですが、いつまで経っても私が帰ってこない。あの頃は、毎晩のようにケンカでした。
その後、香港にメリタの極東事務所を作ることになり、会社から求められてもいないのに、毎日もめていた妻に言われるままに応募し、香港へ行くことになったのです。
それが二つ目の転機でした。向こうでは、同い年のドイツ人男性と一緒に働くことになりました。彼は工場を作って海外に電動コーヒーメーカーを輸出して儲けるための会社、私は香港マーケットでコーヒーと器具を販売する会社を任され、2年間で利益を上げるように言われました。このとき、とにかく彼の仕事の仕方に衝撃を受けたのを覚えています。
私はすべての仕事を一人で抱え込み、電話をして走り回っては、アレして、コレしてといった感じでしたが、彼はその間、何もしないのです。何をしているのかと思えば、ひたすら秘書を探していました。
間もなく、彼は非常に優秀な女性の秘書を見つけてきました。彼の給料が100で、彼女の給料が30とすると、30%の追加投資になりますが、彼は、自身が抱える仕事のうちレベルの低いものから順に、彼女へ次々と渡していき、彼自身はよりレベルの高い仕事を中心に、150くらいの仕事をするようになります。そうすると2人で250近い仕事をすることになるので、30%の追加投資で2倍半の仕事ができるようになるのです。秘書とはいってもアシスタントなのですね。私は相変わらず、あたふたと100の仕事をやっている。どちらが優秀だと思いますか? 私は、「これだ!」と思いました。
先日、世界でロボットに置き換えられる仕事の比率が大きいのは日本だという話が新聞に掲載されていましたが、まさにこれで説明できると思います。本当は仕事をどんどん後輩に渡し、上に上がっていかなければならないのに、自分と同じことをできる人を増やし続けているだけ。小さな細かいことを取ったり取られたりしながら、くだらないレベルの仕事をしているのです。これでは部下も育たない。
私は元々、典型的な日本人でしたが、フランス人の妻と結婚し、喧嘩をしながら洗脳されていったこと、外国で働き、そこで成果の出し方を見たことで自分自身を変えることができました。後に日本に戻ってみると、自然といろいろなことがおかしく見えるようになりました。それが変革者としての私のルーツだと思います。
仕事はゲームのように勝っていけばいい
トリンプ日本法人は10年連続赤字という状態だったそうですが、低迷していた要因は何だったのでしょうか。
とにかく会社はつぶれる寸前で、私が転勤して日本の事務所に行ったときは、ロビーの椅子は穴が開いて中身が出ており、床もすり切れ、とにかくお金がない状態でした。当時、業務に必要で欲しかったインスタントカメラとポータブルPCを買うことがどうしてもできなかったことを思い出します。そのときまでの社長は何をしていたかというと、交通費の精算が上がってきても、お金がないので一ヵ月そのまま放置しておくといったありさまでした。
またこんなこともありました。「バーゲンに出した商品がほとんど売れずに返ってくる」と物流の担当者が言うので、理由を聞いてみると、「若い女性向けの商品の売れ残りを、年齢層が高めのバーゲンに出荷しているから、サイズも違うので売れ残ってしまう」のだそうです。それを聞いた私は、当時の社長にその話をしました。すると「そんなこと! 本当か?」と怒鳴りつけ、物流の担当者は震え上がって「そんなことありません」と答えてしまったのです。上からガッとやられたら、ワッと震え上がって嘘をついてしまう。そういったことが一つひとつ積み重なり、経営陣は現場を把握せず、現場も疑心暗鬼になってしまう。まさに信じられないような負の連鎖でした。
そんな状態の中で社長に就任し、改革を進めると同じ社員たちが変わっていきました。会社はどのように変化していったのでしょうか。
もちろん最初は皆、私のやり方に反対します。まず、朝の会議をやって全ての情報をオープンにしました。そうすると、彼らは疑心暗鬼に思うこともなくなります。そして、私が得意なのはデッドラインですから、どんどん渡す仕事には必ずデッドラインを付けるのです。「やりたくない」とは言えないので、「忙しいから、すぐには無理です」と返ってきます。「ではいつだったらできるんだ?」と聞くと、「一ヵ月後です」となります。一ヵ月後になってから「どうなった?」と聞くと、前日にあたふたと作ったものを持ってくるのです。それを朝の会議で徹底的に直すべき点、検討すべき点を指摘するのです。論理的に言い渡されて、「それでは明日また」となるので、すべての仕事を先送りにしてでも、その日に全部直し、翌朝の会議にまた持ってきます。すると、また私にたくさん直されます。その様子を全員が見ているわけですから、私にデッドラインを付けられたら大変になることがわかっているので、事前に徹底して準備せざるを得なくなる。そうすると、徐々にすべてのことに手が打たれていき、全社的な徹底度のレベルが上がっていきます。次第にこっちもできた、あっちも解決できた、非常に良い結果が出た、と次々に良い連鎖が起きました。
そうして10年間フラットだった業績が、私が行った86年の翌年からポンと上がりました。もちろん最初は、私も商品開発や物流などにも関わりましたが、だんだんと任せていくと、社員がどんどんやる気満々で取り組むようになりました。問題意識さえ持てば、会社には改善することが山ほどあるのです。「いいね、今月はこれやろう。来月はこれやろう」と次から次へとアイデアが生まれてきます。問題意識を自ずと持つことによって自分の問題になり、主体者意識が自然と芽生えます。「自分で提案しちゃったし、吉越さんがデッドライン切ってくるし」ということで、社員がどんどん盛り上がっていきます。あの盛り上がりは今でも忘れられません。
舵はまかせた、ただし航路は外れるな
変革し続ける上での要諦はどのようなものだったとお考えでしょうか。
私が監訳したアメリカ海軍の書籍に「舵は任せた、ただし航路は外れるな」という言葉があります。まさにそこに凝縮されていて、部下が航路を外していないな、というのは常に見ていなくてはいけない。初めのうちは、航路内でジグザグしながら走っていくと思います。しかしそういった状態を見ながらでも、任せる。
それをする上で重要なことは現場感覚だと思います。判断をしていくには、現場そのものが何かがわからなくてはなりません。少なくとも感覚的には、何をおいても現場に近くなくてはいけません。日本の場合は、現場から離れてしまっている人が多いのではないでしょうか。たまに「私は全然知りませんでした、聞いておりませんでした」という上司がいますが、そんなことは絶対に言ってはいけない。私は「知っててやったら首だ。知らなかったらもっと首だ」といつも言っていました。
総括として、「変革のリーダー」に必要なことを改めて教えてください。
そもそもリーダーは、情勢を見極めて物事を変えていかなければならない立場にある人だと思います。ですからリーダーといえば、変革とイコールであり、今までの延長線上ではあり得ません。イトーヨーカドーグループの”変化への対応“という素晴らしい提言がありますが、世の中がどんどん変化しているわけですから、それに対応して大きく変わっていかなければならないことは確かです。イノベーションもそういった変化の中で生まれてくるものなのです。そして、リーダーには必ず部下がいますから、その部下を引っ張っていかなければならない。絶対に勝たなきゃダメ、勝てなかったらリーダーではないと私は考えています。勝ち方はいろいろあっていいとは思いますが、私は部下と一緒に楽しめることを一番大事にすべきだと考えています。
本インタビューは、前回インタビューの良品計画 前会長、松井様からのご紹介によって実現できました。最後に、ご自身が尊敬される変革リーダーをご紹介いただければ幸いです。
私からは、スター・マイカの水永さんをご紹介したいと思います。彼は大会社を経て、非常に面白いアイデアで新しいビジネスモデルを創出し、独立されています。一緒に仕事をしたことはないのですが、とても柔らかい雰囲気でよく笑うチャーミングな方です。経営者としてはもちろん、人間的にも魅力的な変革リーダーだと思います。